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幹細胞の歴史〈中編〉

第4回目:幹細胞の歴史〈中編〉

ヨーロッパを中心にして深化してきた細胞の研究ですが、幹細胞におけるそれはアメリカとソ連の核兵器開発によって発展してきます。アメリカではルーズベルト、トルーマン大統領時代の通称マンハッタン計画の放射線研究の一環として、またソ連でも核兵器の開発を行っていたオビンスクで研究が行われていきます。

ご存じのとおり、核兵器は「放射線」で人間を破壊する兵器であるため、自衛の措置として犯された人体を回復されるために幹細胞の研究は必要不可欠だったのです。

そしてアメリカによる広島・長崎への原爆投下から数十年間、アメリカとソ連は核兵器の開発を進め、膨大な数を増産・保有し、軍事による世界平和の均衡と緊張の度合いを高めていきました。

 

それでは、核開発と幹細胞の密接な関係を示すトピックを簡単に振り返ってみます。

 

 

(1)ソ連とアメリカの核兵器開発競争を背景に、ソ連のセミパラチンスク(現カザフスタンの北東部)では大気圏内核実験が何度も行われました。当然のように実験場周辺の住民は放射能による健康被害を受け続けることになります。

(2)1963年「部分的核実験禁止条約」が締結されて以降、大気圏内における核実験は行われなくなりました。

(3)ソ連は、アメリカからの核攻撃に備え、放射線によって政府の指導者や高官に健康被害も起こる可能性を考え、ソ連科学アカデミーで治療研究を行わせます。

(4)特に白血病については熱心に研究が行われ、というのも白血病幹細胞による急性白血病は、白血病幹細胞が治療抵抗性を示し再発の原因になるからです。当時のソ連科学アカデミーは、白血球、赤血球となる造血幹細胞の研究において、現代と同程度の知見を持っていたと推察されています。

 

 

(5)フリーデンシュタイン・アレクサンダー・ヤコブレビッチ(1924-1998)は、1969年、もっとも重要なMSC(間葉系幹細胞)を発見します。間葉系幹細胞は、心臓や脳などから採取することが難しい組織幹細胞の代用ができる幹細胞です。間葉系幹細胞の発見により幹細胞再生治療の可能性は大いに広がっていきます。

(6)1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻しました。そして約1万5千人の戦死者と7万人以上の負傷者を出すことになります。この時ソ連では、戦闘で「脊髄」「脳」といった神経系の損傷を負った場合、幹細胞技術を応用した治療の研究を行っていた、と言われており、国家機密でもあり情報は定かではありませんが、かなり幹細胞による再生医療の研究は進んでいたと思われます。

(7)そして1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が起き、放射能による健康被害が広範囲にわたって発症します。そして、この事故の5年後、ソ連は崩壊しました。ソ連が解体されたばかりのロシアは政治的・社会的な混乱を極め、科学アカデミーにも十分な予算がないため、チェルノブイリ事故での健康被害への対応も、追跡調査もできていない状況でした。一歩も二歩も先んじていたと思われる幹細胞研究も活かすことができず、その後、ロシアからは多くの研究者とさまざまな情報が西側諸国に流出していくことになります。

 

次回は、ソ連だからこそできた幹細胞研究について要説します。

 

 

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